バガテルの新たな所有者となったイギリス貴族、ハートフォード侯爵は、南北に土地を買い足して14haから24haに庭園を拡張、稀代の美術蒐集家としても知られた彼は、バガテル城そのものにも庭園にも大幅な改変を加えていきます。
19世紀当時のパリの地図上のバガテル公園。中央がアルトワ伯のフォリーだった部分、庭園には黄色の点線の外側部分が加わり、北側(図の左)はイギリス風景式の庭園、南側(右)にはオランジュリーとフランス式のフォーマル・ガーデン、馬場などが造られていきます。
曲線園路のイギリス風景式庭園
敷地の北側には、芝地と木立の間を通る緩やかな曲線園路が特徴的なイギリス風景式庭園が拡張されます。
洞窟も備えた大きな池や樹木には、現在も当時の風景を思い浮かべつつ、気持ちの良い散策ができます。
芝地と木立を超えていくと、公園のそこかしこを闊歩する孔雀や鴨、フォーカルポイントとなる風情のあるファブリックに出逢います。
例えばこちらの鯱鉾のような飾りがついた中国風の四阿、19世紀当時のデザインですが、19世紀末にバガテルの最後の遺産相続人によってバガテルの家具類がオークションに出され散逸の危機にさらされた際、イギリスの貴族が購入し、オリジナルはイギリスに渡ってしまいました。現在あるのは1996年に復元制作されたレプリカです。
オランジェリーとフォーマル・ガーデン
南側には、フランス風にオランジュリーや整形式のパルテールが作られます。
冬に撮った写真なのでかなり冬枯れていていますが(御免なさい!)、現在のオランジュリーの建物の中でも、しっかりコンテナーに植わったオレンジやレモンが冬囲いされていました。
エキゾチックな植物を栽培するためのオランジュリー、そして温室は、当初は王侯貴族の、その後はブルジョワ階級の間で大流行する庭園のステイタスとも言える贅沢な設備でした。
バラ園を見下ろす皇后のキヨスク(四阿)
そして南側の高台には、皇后のキヨスクと呼ばれる四阿(あずまや)が設置されます。
現在はバラ園となっている場所には、当時は馬場があり、ハートフォード侯爵と懇意だった皇帝夫妻が来訪した際に、このキヨスクから馬場で乗馬の練習をする皇太子の様子を眺めていたのだそう。
中国風の紋様が美しいキオスクです。
ネオロココ様式の鋳造門
また、それまでは城に近い西側が正門だったのを、パリの街側に近い東側に新たにネオロココ様式の鋳造門を設置して、正門とします。
ゴージャスな18世紀ロココ風の鋳造門とパビリオン。
ちなみに既存の西側の門にもとんがり帽子が加わるなど、19世紀の折衷主義のある種自由なインスピレーションの組み合わせには、ファンタジックな、どこか御伽の国的な雰囲気が漂います。
かつての正門、ここから中に入って左にはバガテル城とパルテール、右には新たに加わったレンガ造りの厩舎や庭師の家などの建物が並ぶ。
バガテル城へのアプローチとなる円形広場の古代風の彫刻なども、実は19世紀に加わったもの。
バラバラとした紹介となってしまいましたが、このような時代を行き来する様式のミックスは、計らずも(あるいは計って)元々のアルトワ伯のフォリーの時代の庭のイメージ、御伽の国に通じるファンタジーのある雰囲気を醸し出しているのが面白いです。
ハートフォード侯爵の後には、その庶子であり、ロンドンの珠玉の美術館ウォーレス・コレクションに名が残るリチャード・ウォーレスがバガテルを引き継ぎましたが、その後の遺産相続人は、バガテルの家財を売り払い、土地を分譲しようとします。20世紀初頭のバガテルの存続を危機を救ったのは、パリ市による購入でした。[続く]
(追記|写真は省きますが、城の建物自体にもマルキーズと呼ばれる鋳鉄とガラスの庇が設置され(のち撤去)2階部分が高くなるなどの変化があり、また城のすぐ横に、ベルサイユのプチトリアノンに着想されたトリアノンが建設されたのも19世紀。)